スペシャルインタビュー

瑞宝小綬章受賞記念スペシャルインタビュー
「海上自衛隊での学びは人生の糧」

34年間にわたる海上自衛隊での功績を讃えられ、令和4年春の叙勲において瑞宝小綬章を受賞した柴田さんに海上自衛隊時代と現在の活躍についてお伺いしました。

入隊したきっかけは?

父の影響です。父は旧帝国海軍重巡洋艦「衣笠」の乗組員でしたが、第3次ソロモン海戦で米軍機による爆・雷撃で撃沈されました。九死に一生を得て無事日本に帰還。その後、終戦まで広島県大竹市の海兵団に勤務しました。そこでは戦艦大和の最後の出撃の補充乗組員数百人の人選にも携わったと聞いています。戦争を共に戦い抜いた人たちの集まりに、小学生のころから私も父について回り、戦友の皆さんから「お父さんのお陰で今日がある」「名古屋に足を向けて眠れない」などの感謝の言葉を毎度のように伺いました。多くの人から戦争体験や海のロマンについて聞くうちに、父の生き様や、〝国防の念〞とまではいきませんでしたが、自分の家族を守る人間が一家から一人は出てもよいのではと、淡い気持ちで入隊を考えるようになっていきました。

令和4年春の叙勲において、34年にわたる海上自衛隊での功績を讃えて贈られた瑞宝小綬章。

入隊後の活動は?

昭和47年に海上自衛隊に入隊し、海上自衛隊幹部候補生学校に入校。卒業後約半年ほどの遠洋航海を経て、艦艇職域に進むことを決意しました。それから34年、生涯師と仰げる上司、候補生学校で苦楽を共にした同期、生死を共にできると信頼に足る部下との出会いや配属された部署にも恵まれ、無事退官まで勤続できました。
海上勤務では、計9隻の艦艇に乗り、地球20周くらいはしたでしょうか。艦長として護衛艦「ちくご」、「しまかぜ」、「こんごう」の3隻に乗艦。指揮する船が大きくなるにつれ乗組員の数も増え、「こんごう」では約1万トンの艦に約300人が乗り組んでいました。艦全体を円滑に統率するには学校で学んだ知識や技術だけでなく、初級幹部時代からの様々な配置、経験の積み重ねが肝要で、幾多の幸運も手伝って私を大きくしてくれたと思います。また、様々な指揮官にお仕えして人望も欠かせないものだと悟りました。

2016年 インド洋派遣途次の2次大戦戦没者洋上慰霊祭。
アラビア海におけるテロ対策有志連合の司令官表敬、作戦の細部打合せ。

印象に残っている任務は?

平成16年、対テロ対策のため、インド洋派遣海上部隊の指揮官を務めたことです。イージス艦に司令として座乗し、給油艦とこれを護衛する艦の3隻、約9百人を率いて、約半年間の任務につきました。タリバンなどのテロリストが栽培した麻薬の密輸が武器購入、戦士育成の資金源となっていたため、これを阻止するために配備された部隊への燃料補給が主任務でした。アラビア半島を挟むペルシャ湾と紅海の間の約2千キロに点在する11カ国の船に燃料を補給しました。
この任務行動中に常に意識したことは隊員たちの士気の維持です。連日連夜、体感温度70度を超える酷暑の中での作業は、作業する隊員にとって想像を絶するものすごいストレスです。健康、些細なことを発端とした隊員同士の諍いまで、指揮官に報告が届きます。そういったストレスを緩和するために、艦内の食事やリクリエーション、一月のうちの数日ですが補給のために立ち寄った港での史跡研修やセキュリティレベルの高いホテルでの外泊など本国の上層部との折衝も指揮官の役割でした。自衛隊の主任務は本来、国を防衛するために戦闘も辞さないことですが、34年間の任務中には一度も、破壊や人を傷つけるために装備や武器を使用する事態に陥らなかったことが誇りの一つです。

退官後の過ごし方は?

三菱重工に顧問として勤務し、現役で活躍する後輩の皆さんが使い勝手のよい装備品を送り出すお手伝いをさせていただいております。第2の定年後も継続して技術アドバイザーを務めています。退官後、マネジメントや安全管理、子育て、キャリアデザインなど様々なジャンルでの講演を依頼されることもあり、海上自衛隊で経験したことは人生のあらゆる場面に役立っていると感じています。
海上自衛隊幹部学校の方針である〝アカデミック・フリーダム「自由に考えて最善の答えを見つける」〞なところは、名古屋学院大学の教育方針と共通するところがあります。
今後とも、キャンパス、自衛隊双方の後輩の皆さんの〝最善の答〞を導くお手伝いをしてまいります。

退官記念に贈られた記念額。海将補の階級章や水上艦艇徽章、数々の功績を讃えた記念章などが飾られ、入隊からの軌跡が刻まれている。
瑞宝小綬章受賞を祝う友人・知人からの電報や手紙。

柴田 哲冶 さん

経済学部 経済学科
1972年卒業

1972年、海上自衛隊に入隊。一般幹部候補生として海上自衛隊幹部候補生学校に入校。初の遠洋航海中に艦艇職域に進むことを決意する。イージス艦艦長・司令をはじめ、研究開発・教育訓練部門で重要なポストを歴任。2005年、退官後に三菱重工株式会社名古屋誘導推進システム製作所に顧問として入社。現在も技術アドバイザーを務めている。学生時代に高飛込の選手として活躍した経験から、名古屋ダイビングクラブのコーチとして、小学生から高校生までの指導を担っている。